旅人の記録~時の天と地~

旅人の記録~時の天と地~

《浅葱の灯》――境界を渡る蝶の記憶―― 


執着からふっと解放された“森”での記憶。

 旅人は、胸の奥に残る寂しさとともにゆっくりと歩いていた。 

どこかまだ帰る場所を探すように、ひと呼吸ごとに足を進めていた。 


木漏れ日の中、長く溜まっていた重たさが少しずつほどけていく。

 固くなった心の膜がゆるみ、忘れかけていた感覚が静かに戻ってくる。 

そのとき――浅葱色の蝶が、そっと旅人の肩先をかすめた。 

羽は光を透かし、余計なざわめきを撫でるように落としてゆく。

 不安も、孤独も、言葉にならない痛みも、 「ひとりで抱えなくていい」と語るように。 


蝶とともに森を歩くと、ほどなくして澄んだ水音が聞こえてきた。 

 旅人は小川に腰を下ろし、蝶が静かに寄り添うのを感じた。 


浅葱の羽が揺れるたび、胸の奥の寂しさが柔らかな光に変わっていく。

 ふと、古い言い伝えを思い出す。


 ――“浅葱の蝶は、境界を渡る神の使い”。 


水と風と空のあいだを行き来し、 迷った魂のそばに寄り添い、再び歩き出す灯を残す存在。

 遠い昔、この蝶は祈りを運ぶ使いであり、 人の孤独にそっと寄り添う者だと語られていた。

 忘れ去られた想いも見捨てず、 心の底に沈んだ願いを、水面へ浮かばせる役目を持つと。 


小川を覗き込むと、凍っていた感覚が解けるように広がっていく。


 押し込めていた想いが、すっと動き出し、 胸の底で消えずにいた小さな灯りが輪郭を取り戻す。

 浅葱の蝶はその灯を確かめるように、ひらりと一度、旅人の周りを円を描いた。

 その動きはまるで祝福のようで、 「もう恐れなくていい」 そんな声が風に重なって聞こえた気がした。 

やがて蝶は、小川の光へ溶けるように姿を消した。 

ただその余韻だけが淡い青となり、旅人の胸に残る。


 ――たとえひとりでも、見守られている。 

その気配は、微かな灯となって静かに揺れていた。   



《金砂の果実》 ――千里眼の砂猫――


 蠍の女が姿を消したあとも、 旅人は彼女が残した言葉の意味を 理解できずにいた。 

「風の主が案内する」

── いったい何のことなのか。 

考えても答えは出ず、 ただ前へ進むしかなかった。


どれほど歩いただろう。 

 旅人の目は乾きで霞み、 どちらへ進むべきか分からなくなっていた。


 そのとき──

 風の向きを切り裂くように 細い砂の線が走った—— 

 一瞬のうちに、それは輪郭をまとい、 光がちらちらと内部で跳ねて、サンドキャットが形をとった。

 毛並みの奥で砂金のような光が揺れる。

 見た目は小さくても、 風より自由で、気まぐれで、しかし 巡りだけは確実につかまえるハンター。

 猫は旅人を見ることなく、 砂丘をかけ上がり、影の薄い稜線を跳ねていく。

 

その動きに、 旅人の胸の奥がふっと軽くなった。 

理由はない。 ただ、猫の進む方向の空気だけが ほんの少し甘く、澄んでいる気がした。

 猫を追うように足を進めていくと── 光の層が揺れて見える砂地へ出た。


 風が吹き抜けると、 砂がほどけるように崩れ、 下から 小さなオアシス が姿を現した。

 そこは人の手が触れたことのない 透明な水溜まりで、 水面には夕陽が砕けて 金の粒となって輝いていた。 

水辺には、 砂漠に自生する実がひとつだけ落ちていた。

 太陽をたっぷり浴びて育ったような、 宝石のように透き通った果実。


 サンドキャットは その水際で一度だけ立ち止まり、 風の方角を確かめると、 光の粒子となって消えた。 旅人は水を飲む。


 乾きが満ちていくにつれ、 胸の奥のざわめきが静かに沈んでいく。 

果実をかじると、 甘さと冷たさが一瞬で体に広がった。 

不思議な恵みは多くはない。 だが、必要な分だけは確かにそこにある。


サンドキャットという存在は、 導きはしない。

 ただ、 “巡りのある方角”へだけ姿を見せる―― 古くからそう語られていた。


 満たされた心で空を見ると、 どちらに進むべきか、 迷いが自然にほどけていった。 

旅人は荷を背負い直し、 風が生まれる方へ歩き出した。 



《蠍火の月》――砂に呼ばれた者―― 

 

旅人が砂漠へ足を踏み入れて、どれほどの時が経っただろう。

 陽炎と静寂のあいだを彷徨ううちに、空の青さは音を失い、 砂丘の影が夜より深く沈んでいった。


 そのとき―― 微かに砂を歩くような“何か”の気配を感じた。

 振り返った旅人の前に、黒い影が静かに立っていた。


 旅人より少し低い背丈の女であった。

 風に揺れる長い外套。

 裾には、金色の砂が薄くまとわりついている。 

 そして女の肩には―― 大きな蠍が、まるで影の一部のように乗っていた。

 蠍は外套の影から旅人をじっと見つめ、尾の先を揺らしていた。


 女は無表情に口を開いた。

 「迷ったのではないわね?」

 女の瞳は、旅人の 過去・痛み・願い を一瞬で読み解く “砂漠の眼” をしていた。


 旅人は語った。

 白い王が眠る失われた都を目指していること。 

そこには魂の声が届く泉があるということを。


 女は驚かず、静かに砂へ腰を下ろし、 外套の隙間から古びたカード束を取り出した。 

 旅人も砂へ座る。 

その瞬間、蠍が尻尾を震わせ、旅人の影をなぞった。

 蠍は、旅人の影を “見極めて” いる様子た。 


 「影を越えられる者だけが、境界を越える。」 

女は一枚のカードを引いた。 

「あなたが歩いてきたのは――喪失の砂。 あなたが向かうのは――決意の火。」

 カードを表に返す。


 ――《THE SUN(太陽)》。

 胸の奥に熱が灯った瞬間、女は迷いなくそのカードを空へ放った。


 風が触れた途端、空気そのものが燃え移るように赤い炎がふわりと立ち上がる。 

まるでマジックショーでも見ているかのように幻想的な光景が旅人の目の前に広がった。


 呆然としているように見つめる旅人に、女は微笑み囁いた。

 「未来は“読み解くもの”ではない――」

 次の瞬間、蠍の尾が旅人の手に静かに触れた。 

熱が走る。 

それは大地の“熱”が “生きる力” へと変わる蠍火の魔法。

 熱は全身に広がり、 砂の乾きさえ、歩く力へと変換されていく。

 女は立ち上がり、砂漠の夜空を指す。 

そこには――赤い三日月が浮かんでいた。


 砂漠の夜を裂き、未来を照らす “境界の光”。 

 「大きな転機の時を三日月も赤く染まり、味方についた―――

道はもう開いている。その都は幻ではない。呼ばれているのだ。」


 蠍が女の肩に戻ると、風が一度だけ強く吹いた。

 「その風の主が案内する―――」 

そう言い終わるか、瞬きの一瞬――

女も、蠍も、燃えたカードの灰すらも消えていた。


 残されたのは、 旅人の皮膚の下で脈打つ“蠍火”と、砂の底から伝わる微かな震えだけ。 

旅人は立ち上がった。

 白い王の都へ。 

魂の泉。失われた願いの果てへ。 

そして、まだ見ぬ未来へ。 




《妖精の森とひらめきの種》 ――揺れる心は白い王へ続く扉の影―― 


森へ続く小道を歩いていたとき、旅人はふいに“巨大な影”に気づいた。

 霧の奥で、ひずんだ光の中、 大きなイノシシのような輪郭だけがゆっくり動いている。 

旅人はその気配に驚き思わず足を速め、 気がつくと“森の奥”へと入り込んでいた。

 葉の隙間から降りてくる緑の光はどこか懐かしく、 先ほどの恐れすら溶かしていく。


 ほのかに思い出される、 ——イノシシに跨った女神の古い伝承。

 森と水を守る存在が、時折影だけを見せるのだと言う。


 耳を澄ますと、妖精たちの笑い声が重なり、 森全体がひとつの生命のように脈打っている。

 「こどもの声?」

 木漏れ日の中、笑い声の中心に幼子がちょこんと座っていた。

 妖精たちに囲まれ、微笑んでいる。

 誰もその子がどこから来たのか知らない。

 けれど妖精たちは彼を見つけた日からずっと、花の蜜と光の欠片で育てていた。

 その子は“悲しむ”ということを知らなかった。 転んでも泣くかわりに、目を輝かせる。

 その笑顔は森に新しい色を生み、枯れかけた花々でさえ静かに甦らせていった。

 妖精たちは囁く 

「この子は“ひらめきの種”を持っているの。迷った人が来るたび、その種を分けてくれるのよ。」

 旅人の胸にも、ふわりと光る種が落ちてきた。

 透き通った薄っすら緑がかった柔らかな石のような、 見つめるほどに色を変え、心の奥で小さな“ワクワク”が芽生えた。



 

そのとき―― 木の影から、ひょっこりとゴブリンが顔を出した。 

「おやおや、迷える旅人さん。こんなところまで来るなんて、何か探しているんだろう?」 

 驚いている旅人に、ゴブリンは声を潜めながら続けた。

 「森を抜けて、遥か砂漠を越えた先に“失われた都市”があるんだ。 そこには白い王がいて、願いを叶えるって話さ。 ほら、今はいない家族にだって会える……そんな噂もある‥みたいな。」 

 旅人の心に、長く閉じていた扉がきしりと動いた。 会いたい人がいた。 伝えられなかった言葉もあった。 色んな感情が湧いてきた。 もし、ほんの一瞬でも会えるのなら――。

 その思いが、胸の中で静かに広がっていく。

 近くで聞いていたこびとたちが、慌てて駆け寄ってきた。 

「おいおい、そんな噂で旅人を惑わすんじゃないよ。このままここで暮らしたらいいじゃないか。」

 ゴブリンはすぐさまヒョイッと体を翻し、どこへやらと姿を消した。

 けれど旅人の心は、宿った“ひらめきの種”が、もう進むべき方向を照らしていた。

 こびとや妖精たちは旅人が想像していた以上に人間らしく、温かなもてなしと笑いで日々を過ごした。 しばらくして、旅人は心優しい彼らに氣づかれぬよう森の緑を背にし、遠く揺らめく砂漠を目指し歩き出した。 振り返ると、小さな光が舞い、まるで見送るように揺れていた。


 人はそれを蛍と呼んだが—— 

あれが森に息づく妖精たちであることを 旅人だけは胸にしまったまま、歩みを速めた。


 その姿を、遠くの木の上から静かに見つめる気配があった。

 巨大なイノシシ。 

その背に揺れる、誰よりも静かな女神の影。

 ——旅人はまだ、その導きに気づいていなかった。  


《地底の月》 ――青銅のセレナイト―― 


風が止み、世界が息をひそめた。

 空を覆う雲の下で、旅人は二つの光に出会った。

 ひとつは、夜の底に静かに瞬く黒の光。 もうひとつは、朝露のようにやさしく灯る紅の光。 

それは――トルマリンの精霊だった。 


 黒の精霊が言った。 

「この大地の奥深くに、光を閉じ込めたまま眠る者がいる。  あの光が解かれねば、この世界の均衡は戻らぬ。」 

紅の精霊は微笑んだ。 

「でも、誰もその洞へは近づけない。  闇が深く、恐れの声が耳を塞ぐから。  ……あなたなら行ける。  あなたの中にも、まだ眠る光があるもの。」


 旅人は頷いた。

 その瞬間、遠い地の底から呼吸のような響きが聞こえた。

 ――呼んでいる?。 


 足を踏み出すと、警告の風が頬を掠めた。 

「おやめなさい、そこは戻れない場所。」

 「その闇は、人に照らすことは難しい。」

 声がいくつも重なった。

 けれど旅人は、胸の奥で微かに震える光を信じ、その声を振り切った。 

 そして、地底の入り口へと降りていった。

 岩肌は冷たく、 空気は静寂の音を帯びていた。

 やがて、目の前に広がったのは、光のない空間。 そこは、まるで水のない海の底だった。 

洞窟の空気は飽和し、壁面から絶えず水滴が生まれては落ちていく。 

その湿度は、光を閉ざすほどに濃く、 結晶たちの中に眠る“水”さえ、静かに揺らいでいるようだった。 

 しかし、その奥に――わずかに揺れる白い輝きがあった。 旅人が足を止めると、 岩の隙間から透きとおる白い光がのぞいていた。 それは――セレナイト。

 けれどその輝きは、どこか脆かった。

 彼女(精霊)は、結晶の中に“水”を宿したまま、幾千年のあいだ湿り気に満たされた地底で、 少しずつその力を削がれていたのだ。


 旅人は近づいた。

 壁に埋もれた透明な結晶が、心臓の鼓動のように、ゆっくりと明滅していた。


 声がした。 

洞そのものが語っているような、ひんやりとした澄んだ響き。 

 「長い間、光を封じられたまま夢を見ていた。 この湿りの底で、溶けてしまいそうだったわ。 けれど、あなたの足音で、ようやく目覚めたところなのです。」 

セレナイトは少し笑って見せた。 


旅人はその光を見つめながら、そっと手を差し出した。

 「君を、月の下へ連れ出すよ。  月の光があなたを癒すのなら――外の風に触れさせたい。」

 セレナイトは目を細めるように輝いた。 

「……月。あの光を、まだ覚えているわ。」 声が震えた。

 「でも私は、この地底に結ばれている。  

私の結晶は“水”とともにできたの。  外の風に触れれば、私は砕けてしまうかもしれない。」

 

旅人は小さく頷き、 胸の奥から、小さな光を取り出した。

 それは、青く澄んだ星のかけら。

 掌の中で淡く脈を打ち、まるで心臓の鼓動を写したように震えている。

「エリオンから授かった宙の記憶。どういうわけか、このかけらで命を包むことができるんだ。」

 

 セレナイトの瞳がわずかに見開かれる。 

その光は、洞窟の闇をやさしく照らしながら、結晶の奥に溶け込むように揺れていた。

 「これなら、あなたを壊すことなく連れ出せる。」

 旅人は囁き、星のかけらを結晶にかざした。

 青い光が静かに広がる。

それは水面に浮かぶ月のように、穏やかで、深く、どこまでも透明だった。


 セレナイトの結晶が共鳴するように震え、洞窟の湿った空気が清らかに変わっていく。

 「懐かしい……この光は、宙の記憶そのもの。」

 セレナイトの声は、涙のように澄んでいた。


 「では、月の下へ行きましょう。 私はあなたの青に包まれて、もう一度、空を見たい。」

 旅人の胸元で、青の星が一際輝きを増す。 

それは、夜空と地底がひとつに重なる合図だった。


 洞窟の壁に刻まれた水のしずくが、光を帯びて星のように輝く。 

そして、旅人とセレナイトの姿は、ゆっくりと淡い蒼光に包まれていった。  






セレナイト(Selenite)は、 

「月の女神セレーネ(Selene)」の名を受け継いだ、 内なる光と再生を象徴する鉱物です。 

 その透明で繊細な結晶は、 “純粋であること”の脆さと、 そこに宿る静かな強さを教えてくれます。

 セレナイトは高次のチャクラ―― 

とくにクラウンチャクラや第三の眼に響き、 余分な思考や不安を手放し、 澄んだ意識へと導くと言われています。 

 また、空間や身体に滞ったエネルギーを浄化し、 心を安らぎと静けさで満たす石としても知られています。 その光は、穢れを祓うというよりも、 “すべてをやさしく包み、調和させる”波動を持っているとか。 


 ― 旅人、最初の夜ーに戻る

《ルビーの夢》―石の声を聴く―

 

旅人は、小さな谷にたどり着いた。

 そこには、星明かりを受けて赤く輝く石が静かに眠っていた。 


手に取ると、ルビーの見る夢が流れ込んできた。 

それは、まるで夢そのものが語りかけてくるような、やわらかな響きだった。 

 「私は、情熱の石と呼ばれてきたけれど―― ほんとうは、静かな光にも憧れていたの……」

 ルビーは、静かに語り始めた。

 透明な水晶を通して、その夢は旅人の心に染み込んでいく。

 「燃えるような赤も好き。 

でも、いつか落ち着きのある紅(くれない)の色で、見る人の心を温めたいの。 

派手な炎じゃなくて、 夜のランプのように、そっと照らす光になりたいの。」


 旅人は微笑み、ペンダントに指を添えた。

 銅の粉がほのかに揺らめき、その夢を祝福するように輝きを増していく。

 「旅人よ。 あなたの中にも、まだ形になっていない“夢”があるでしょう? どうか、それを恐れないで。ゆっくりでいいの。 あなたの炎が、あなただけの色で灯る日を、 私はずっとここで見守っているから。」


 夜が明けるころ、旅人の胸には温かな光が宿っていた。

 それは情熱の赤でも、哀しみの紅でもなく、 ――“願うという名の、やさしい炎”だった。


旅人はまた歩き出した。 道の向こうには、まだ見ぬ朝の光が広がっている。 

 旅人の旅は、ゆるやかに始まっていた――。



ルビー、その光の意味――


ルビーは「情熱」「生命力」「行動力」を象徴する石です。 

人生に変化を起こしたいとき、眠っていた才能を呼び覚まし、前に進む勇気を与えてくれるといわれます。 その燃えるような赤は、心の奥にある“火”を再び灯す光。

 ハートチャクラとルートチャクラの両方に対応し、 愛と生命力を結びつけるエネルギーを持ちます。 無条件の愛を育み、自己愛や他者への信頼を取り戻し、感情を癒やしてくれる石でもあります。

 古くから「王の石(King of Gemstones)」と呼ばれ、 権威や地位、繁栄、守護の象徴として人々に大切にされてきました。 

悪しきものから身を守り、幸運と富を引き寄せるとも伝えられています。

 また、困難を乗り越える“不屈の力”と“内なる目覚め”を導く石として、 心の炎を絶やさぬよう静かに励まし、 本来の自分の強さと輝きを思い出させてくれます。 


 そして、ルビーは七月の誕生石であり、蟹座や獅子座を守護する石としても知られています。

 五行では「火」のエレメントに属し、意志と生命力を司るエネルギーを象徴します。


《星の巡りⅠ – エリオンとの出逢い》

 ――星々の記憶を渡る者―― 


  森を抜けた旅人の前に、夜の果てがひらけていた。

 空と地の境は消え、ただ星の海が広がっている。 音も風もなく、宇宙が呼吸をしていた。

 その中を歩くたびに、足もとに小さな光が生まれ、 波紋のように広がっては消えていく。

 ひとつひとつが、誰かの祈りのかけらのようだった。 


 ふと、遠くの光がゆらぎ、人の形を結んだ。 

淡い青に身を包んだその存在は、 両手で『光』を運んでいるようだった。

 けれど、ふいにその指先からひとつの欠片がこぼれ落ちた。


 

旅人は思わず駆け寄り、手を伸ばした。 掌に触れたそれは、光の結晶。

 青と金がゆらめき、 まるで心臓の奥に眠る“何か”が形になったようだった。

 「……それは、星のかけら。」 光の人が静かに言った。

 「遠い夜に生まれた祈りの断片さ。」


 旅人はその言葉を聞きながら、光を見つめた。 

中に、どこか見覚えのある色があった。 

あの日、誰かの手から放たれたような――。

 けれど、思い出そうとすると、柔らかな霧に包まれる。

「大切なもののようですね。」


  

「そう。だけど、手放されたものほど、よく光る。」 

 エリオンは微笑み、旅人の手の上に手を重ねた。 

二人のあいだで、かけらがひとつの灯となる。

 波紋のような光が広がり、夜が優しく揺れた。 


 「君に託そう。光は、渡された瞬間に新しい意味を持つ。」

 旅人は頷き、胸に抱くようにしてそのかけらを見つめた。

 不思議と心が静かで、どこか懐かしい温度に包まれている。

 エリオンの声が、星々の中で響いた。

 「君が次に出逢う場所で、その光はまた目を覚ます。  それが“めぐり”というものさ。」 


 旅人が顔を上げたとき、エリオンの姿はもう、星の流れに溶けていた。 

残されたのは、掌の中のあたたかい光。

 遠くで、誰かが筆を走らせるような音がした。

 空のどこかで、微かな煌めきが生まれる。 

 旅人は歩き出した。 胸に抱いた光が、道を照らしていた。


 ――それは、かつて手放された祈りが、 形を変えてめぐる“輝きの循環”だった。

 “祈り”が“夢”を生み“夢”が“光”となって世界をめぐる、人の心の奥に流れる永遠のリズム

そして、エリオンが示した「星の記憶」の物語だった。



《月の祈りⅡ – 森と空》

――旅人、森の魔女に出会う――


夜の森は、月の光を吸い込みながら静かに息づいていた。

風が梢を渡り、葉の一枚いちまいが銀色にきらめく。

遠くでフクロウが低く鳴き、木々の影は、まるで眠る巨人のように連なっている。


旅人は、闇の中を歩いていた。

胸の奥にはまだ、人の世界の重さを抱えたまま。

――責任、後悔、小さな恐れに、ありとあらゆるもの・・・

どれも置いてくることができず、ただ静かな光を探していた。


「おやおや、夜の森で人間とは珍しい。」

背後から声がして、旅人は振り向いた。


月明かりの中に、小さな赤い帽子が揺れる。

「ずいぶん重たそうな荷物を背負ってるじゃないか。」

そう言って笑うのは、小さなおじいさん。

白いひげを撫でながら、まるで旅人の心を見透かすような目をしていた。


「……何も持っていないよ。」

「見えない荷物じゃよ」


こびとはぽんと手を打った。

「よし、ちょうどいい。森の魔女のところへ行こう。あの人は夜に絵を描く。いらないものを光に変えるのが得意なのさ。」

そう言うと、こびとはひょいひょいと森の奥へ進んでいく。

旅人は半信半疑のまま後を追った。

やがて、木々がひらけた。

月光の下に立つのは――黒を纏うスレンダーな女性。

頭のてっぺんで束ねられた長い髪には筆が刺さっている

手にはペインティングナイフに筆、筆、筆。

夜の空気をキャンバスに見立て、月明かりを掬って描いていた。

「やあ、今夜はお客さんを連れてきたよ。この人間、描きがいがあるじゃろう?」

こびとが言うと、魔女は筆を止めた。


「ずいぶんと大きな荷物だね。でも、氣づいてない様子ね」

低く、しかしやわらかな声。

その瞳は月よりも深く、どこか懐かしい光を宿している。

筆先が動いた。

月の雫が線となり、森の空気に色をつけていく。

緑が息づき、青が流れ、金が星のようにまたたく。

描かれるたびに、森が生きて動いていく。

「人の世界は、考えごとが多すぎるのよ。でもね、森はただ、生きているだけで十分。」

こびとは帽子を押さえて笑った。

「聞いたかい? ここでは“心配”も“正解”も禁止じゃよ。」

旅人は思わず笑い声を漏らした。


笑いと一緒に、胸の奥に詰まっていたものがほどけていく。

魔女は筆をくるりと回し、夜空にひとすじの光を描いた。

それは三日月と溶け合い、柔らかい風となって旅人を包み込む。


「もう大丈夫。月も、森も、あなたの中にいるわ。」

旅人は目を閉じ、その光を深く吸い込んだ。

風が頬を撫で、葉のざわめきが遠くで笑う。

そこに満ちていたのは――生きることの温度だった。


――生きるって、こんなにも軽やかで、美しい。

そして、世界は、思っているよりも、ずっとやさしい。

森が静かに呼吸を続ける中、

魔女は筆を空に向けた。

月の光が絵の具になり、

夜の空に無数の粒となって飛び散る。

「これは、あなたたちが手放した光。

 悲しみも、迷いも、もう闇にはならない。」

旅人は空を見上げた。

星々がゆらめき、まるで誰かの記憶のように瞬いている。

それは、森で生まれた祈りのかけらだった。


いつかの星空に、

魔女が光に変えた想いが、静かに散りばめられていく。



静寂の夜、旅人は初めての祈りを胸に歩き出す。

心の奥に沈む光を見つけるまでの、最初の物語。



――旅人、最初の夜に祈る――

世界が眠るように静まり返った夜。

旅人はひとり、冷たい風の中を歩いていた。

どこまでも続く暗闇の中、

心の奥に重たく沈むものがあった。

それは悲しみか、後悔か、

あるいはまだ名を知らぬ感情だった。

波の音が近づく。

月明かりが海面を撫で、

揺らめく光が足元に広がっていく。

旅人は立ち止まり、その光に手を伸ばした。

月が映る水面に触れると、指先に冷たい震えが伝わる。

けれどそれは、どこか懐かしく、優しい温度でもあった。


胸の奥で、何かがほどける。

長く押し殺してきた涙が、静かに頬を伝った。

波が寄せては返し、足跡をさらっていく。

それでも、誰かと歩いていたような温もりが残っていた。


そのとき、手のひらに小さな雫が光を宿した。

白く、淡く、夜の静けさを抱くような光。

それが、旅人の“月光の雫”だった。


「涙は、弱さじゃない。祈りのはじまりだ。」

月の光が、海を照らす。

旅人はその道をたどるように歩き出した。


もう、迷いはなかった。

夜はまだ深く、けれど心の奥には、

小さな月が確かに輝いていた。  


――旅人の祈りとは、涙が光に変わる瞬間。


旅人は夜明けの空の下、ひとすじの光を追いかけて歩き始める。